花粉症

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マクドナルド

「じゃあ今から近くに座ってる人で5人組作ってディスカッションしてください」来た。この時間が。学生生活で最も忌々しい瞬間。グループワーク。後ろを振り向く者、前の席を小突く者、ざわめきを増す大教室。グループワークといったって、周りの連中はどれもサークルやらクラスやらで内輪で固まった連中。せいぜい彼らに馴れ合いを一時的に解放する場でしかないのだ。今日も1人、僕は取り残される。普段なら極力存在を消してこの10分弱をやり過ごすのだが、今日は運悪く巡回にきた教授に見つかってしまった。「あれ?他にメンバーいない?じゃあ、、、あっちの一番後ろのグループに入れてもらおうか」指をさされたのは、明らかに自分とはいずれにも交じりえない連中の集団。浅黒い肌、不気味に黄色くくすんだ髪、校章のあしらわれたジャージ。最後尾のコンセントでスマホの充電をしていた連中のうちの1人は僕を一瞥した後、何事もなかったかのようにまた仲間との会話をはずませる。教授の言われるがままに彼らの1つ前の空席に着席しても、輪はすでにその一列後ろで結ばれていて、彼らと僕の距離感は本質的には変わりはないのだ。今日のディスカッションテーマは相対的剥奪社会的排除の違いについて。先ほどよりもより大きな音量とより確かな明瞭性で聞こえる彼らの会話には、イチジョのレイナというのが新歓合宿でトモアキという3年に寝られて以降めっきり顔を出さなくなったということが、あたかもその例にすり合わせるようにして談笑の上に上がってた。知りえたのはたったそれだけで、いずれにしても僕がその「グループワーク」にとって門外漢であることに疑いはなかった。ならば今日はもう切り上げてやろう。彼らは僕がいなくなっても気にしないどころか、気づくことさえないだろう。本来ならば背負うべき形状のバッグを無理やり持ち上げ、早足で、前がかりで教壇横の出入り口へと向かい、ドアノブを奥に押す。すると、「あれ、どこ行くの?」の矢文が背中に刺さる。まずい。巡回していた教授の視線の延長線上にちょうど立ってしまったようだ。クソ、こいつは。今日はことごとく気づいてくれやがって。毒が回らないうちにすぐに振り払ってその空間から出るべきだったのだろうが、不都合にもできの悪い身体が180度方向を転換してしまった。無数の目だった。200弱の目が僕を焦点に向けられていた。現在進行形のこの記憶を振りほどきたい、そう思ったのか、塗りつぶしたいと思ったのか、僕の本能は音としてその身体を表した。

「これが社会的排除だ!」

刹那、大教室はマクドナルドに変わり、学生たちは女子高生へと変貌し、空間は拍手喝采、安全ピンをもった中年女性と覚えたての日本語で生活の疑問を投げかけるフランス人青年が手を取り合い、ラ・ラ・ランドのアカペラ詠唱に合わせて踊り始めた。僕はこの日を「文明」と呼ぼう。

品川

 たとえばあなたが突然観光客に道を尋ねられて、「ここ(東京駅、としましょう)から品川駅に行くにはどうしたら良いですか?」と言われたとしましょう。その時、あなたはどう答えますか?山手線だったり東海道線だったり、はたまたバスだったりと選択肢はいくらでもあるわけですが、間違っても「改札を出たらタクシー乗り場があるので、そこへ向かってください」などとは言ってはいけません。なぜか?タクシーが高いから、というわけではありません。その理由を考えることに、人づきあいにとって大事な要素が含まれています。

 もう一度質問を思い出してみましょう。「ここから品川駅に行くにはどうしたら良いですか?」とあなたは聞かれています。もっと言えば、あなたが聞かれています。この意味、わかりますか?以下、答えです。もし、その観光客の方がタクシーを選択肢として考えているならば、その質問(要望)はタクシー運転手に向かって発しているわけです。しかし、そうではなく通りすがりで見ず知らずのあなたにわざわざ尋ねた。つまり、タクシー運転手にぶつければ即決で解決する質問をあなたに投げている時点で、その人はまったくもってタクシーを利用する気はないのです。そうした「言外の意味」を理解せず、タクシーを推薦してしまうようだとあなたは「通りすがりの見ず知らずの人」から「他人の意図を汲み取れない人」へと成り下がってしまうのです。一見至極まっとうなことを言ったつもりなのに、どうにも相手には腑に落ちない表情をされることに日常生活で悩む方は、おそらくこういった意識が欠落しているのではないかと私は思っています。

きしめん

 先週末、久々の休みを使って山の方へぶらりと旅へ出向いた。

 

 朝9時、新幹線のホームに立って都心を発つ。土曜日ともあってか、周りの乗客はたいてい家族連れかキャリーケースを引くサラリーマン。バックパッカーと思しき外人の姿も見られ、駅員が出来の悪い片言の英語で応対している。そんな状況を尻目に、私は席を求める長蛇の列に1人並ぶ。それにしても、来る列車来る列車みな一様に均質。愛称や停車駅は違えど、外見には差異を見いだせない。私が幼少期の頃は車種に応じて様々な形式が走り、そのそれぞれに個性が見えたものだが。列が動き出した。母親に手を引かれる男児の後ろをついて、車内に乗り込む。

 

 速達便に乗ったこともあってか、始発駅の時点ですでに満員。早めに並んでおいた自分自身の判断に感謝した。列車は動き出し、みるみるうちに速度を上げてゆく。窓の外の風景は徐々にビル群から住宅群、はてには田畑の海に変わる。ふと、急に腹が鳴りそうになる。そういえば、今朝は急いで家を発ったためまだ何も口にしていなかった。こんな時こそ車内販売の弁当を調達し、流れる車窓を眺めながらゆっくりと旅を楽しみたい。が、しかし。座席テーブルに貼られた掲示を見ると、指定席車両以外の車内販売は中止したとのこと。何たる怠惰か、サービス不良も甚だしい。仕方なく、目的地まで我慢しよう。ところで現在地はどのあたりだろうか。入口ドア上の電光掲示板が直近の通過駅を知らせるのを見て、自分の現在地がまだ目的地までだいぶ遠いことを知る。ああ、またかと思ってしまう。この県は見どころも何もない上に、非常に面積が広くいつも新幹線の時間を長く感じさせる。まったくもって不快なことだ。

 

 しかし空腹には埒が明かないので、とりあえず一服することに。クリーム色と緑のデザインの箱、それにライターを片手に席を立つ。昔は車内でも吸えたものだが、時代は嫌煙の流れ。ドアを出て、デッキ隅の小さな個室に追いやられるしかないのだ。いつもより強めに吸い込み、ふーっと煙を吐く。起きてからものを食べていないこともあってか、ひと口でだいぶクラクラと重みがきた。ともあれ、最後の辛味まで吸い終えると、非常に落ち着いて身も心もすっきりした。席に戻り、再び旅を愉しむことにしよう。

 

 席に戻ると、何やら先ほどの親子連れが騒ぎを起こしている。もう降りたいと駄々をこねる子供と、静かな口調と手ぶりでどうにかあやす母親。ここは公共の場、怒鳴ってでも黙らせるべきであろうが、それをしようともしない母親の教育に無性に腹が立った。私の幼少期は、デパートのおもちゃ売り場でめぼしいものを買ってほしくどれだけ泣き喚いても、両親はただ私をひっぱたいて言う事を聞かせるばかりであった。その気概が、今の親たちにはもう無い。

 

 悲鳴独唱に30分弱耐え、ようやく列車は目的地に近づいた。荷物を整え、デッキへと向かう。ホームに降り立つと、移動の早さからはさほど遠くに来たようには感じないものの、駅名標で自分が随分と移動したことを確認する。これもまた、旅の醍醐味であろう。だから私は心から旅が好きだ。空腹が限界に近づいていたため、ホームの立ち食いソバ屋に早足で向かい、この地区ならではの一品を頼む。350円。つるつるとノドをつたう食感が非常に心地よい。店員の不愛想さが多少鼻についたが、ひとまず空腹を満たしたことでさらなる歩みへの活力を得た。

 

 日の差す新幹線ホームから商業施設に閉ざされた在来線ホームへ降り、人波に沿って新たな列車を待ち、さらに郊外へと向かう。残念ながら着席はできなかったものの、バイパス沿いを快足で駆け抜ける車窓は都心では味わえない貴重なものだ。途中駅で降り、今度はローカル線に乗り換える。まだかまだかと真新しいホームで待ち構えた中、来たのは先ほど乗った車両とほぼ同じデザインの車両。ローカル線ともあって両数は短く、気動車タイプの車両だが、街の中心部を走る電車車両と何ら変わらない外見には驚いた。さらに驚いたのは内装だ。ローカル線といえばボックスシートから山や渓流を眺めるのが一番期待されるが、まさかのロングシート。利用者がいるかすらも怪しい、かのような過疎ローカル線に都心と変わらぬ内装を施すのは何と風情のないことか。最近の鉄道会社はまったくもって旅人の旅情を削ぎ、不動産開発や商業施設経営にばかり目が眩んでおり、運輸業者としての意義を忘れ切っている。対岸の車窓を正面から眺めた状態で列車は動き出し、ここからどんどん田舎へと向かう。

 

 始発駅を発って30分ほどで無人駅も多くなってきた。途中の小さな駅で、上下にジャージを着込んだ部活帰りと思しき中高生が一気に乗り込んでくる。つい先ほどまでほとんどが空いていた座席が一気に埋まり、みな昨日見たドラマの話や恋愛の話で盛り上がっている。甘酸っぱい爽やかな汗の匂いが単機の車内の中に立ち込め、ハリのよい腕や脚が青々しくも艶めかしさを持って、つい見とれてしまう。いずれ田舎を出るであろうこの子たちは今どれだけ勉強をしていて、どういう進路に進むか、牧歌的な田舎生活に慣れたこの子たちがどうやって都心の精神の中に調和できるかが気になったが、他人の人生に詮索するなど野暮なことはやめておこう。

 

 列車はさらに山深い領域へと進み、途中途中の駅で学生たちがそれぞれ降りてゆき、再び車内は閑散を取り戻す。だいぶ渓流の流れも激しくなってきたところで、列車は2面3線の駅へ滑り込んだ。時刻表を見ると、ここでは20分も停車時間として待たされるようだ。車内でずっと居座っていては埒が明かないので、ホームに降り立ってみた。新幹線以来の1本に火を付け、澄んだ空気と強烈な草の香りを同時に吸い込む。見渡す限り一面の緑。しかし、遠い丘のある一面だけ緑が欠け、代わりに紺色の無機質なパネルがこちらを眺めている。もはや我々はどこへ出向いても都会的資本主義の手からは逃れられないようだ。しかし、逆側を眺めると断崖絶壁の下からなだらかかつ激しい水音が聞こえて来る。それを不可視にする萌黄色の花と相まって、1つのフレームとして生きた風景を提供する。10分ほどすると、先に単線を先行する特急列車がやってきた。轟音を響かせ、煙を吐きながらジョイント音とともにこちらに近づいて来る。しかし、間近に感じるとさほどスピードは出ていないようだ。競争相手のいない速達列車は、自分が速達列車である大前提を忘れ去ってしまっているのだろう。3両編成のそれをやり過ごすと、私の列車は数分でまた歩みを進める。車内に戻り、再び席についた。

ワッフルコーン

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SNS、特にTwitterをやっているとその人物をアイコンと普段のツイートでキャラ付けして毎日その動向を見ているんですけど(たぶん皆そうじゃないかな)、時々、というか結構な頻度で本当にここに中の人はいるのかって疑問を抱くんですよね。

それこそTwitterって日常のどうでもいいことやヘイトやイキリを垂れ流す場なんですけど、その内容が例えば今の自分じゃ想像もつかないような領域のことを言っていたりした時は急に、この人にとっての日常は自分にとっての不可視の世界なのかな、だったら本当にこの中に人はいるのなって思うワケです。

なので、Twitterではお互いよく知っているが会うのは初めてな人と対面する瞬間は結構安心感と不安感が入り交じった独特な状態ですね。

でもその人に人間の顔があること、声があることを確認すると途端に安心するというか、何か急に近い存在であるように感じます。

一方で、やっぱり自分の中ではSNS空間上で築かれたイメージの方が深くあるので、そういう相手を生身で前にしているという特別感と距離感も抱くワケです。

そういう入り口で話せる人をどんどん増やしてきた自分を自分で特別な存在だとしたいんですけど、皆がSNSやってるこの時代にそういうルートから人付き合いを増やしていった人間なんて山ほどいるに違いないんで、ただ言えることとしては知ってきた人いずれも、SNS空間上で想像していたほど色が強いワケではないから皆だいたい同じような種族の人間だからフォロー・リフォローの関係になってるんだなーということです。

 

なんでこんな長文にしたかと言うと、最近リアル生活の方でうまく言葉が出てこない症状が出始めたのでそのリハビリのためです。コンビニでモノ買ったときも「出すべき音声」の正解が急に分からなくなってしまいました。セブンイレブンでワッフルコーンのアイス買いました。あれバニラミルクの風味はもちろん、コーンがサックサクで美味いですよね。

歯磨き粉

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時折、「スパイラルグレープ」という5年前ぐらいに大々的に売っていた炭酸飲料のことを思い出します。

ブームに乗じて私も一本だけ買って飲んだことがあるんですが、子供用の歯磨き粉(ブドウ味)に超強刺激炭酸をブチ込んだ味がしました。口ん中にブドウ風味の鉄球(プチトマトサイズ)が3つぐらい転がってるような感覚でした。普通にまずかったです。でも時折ほんと不定期にこの味を思い出します。


あれは一体何だったんでしょう。そしていつの間に市場から消えたんでしょう。


生きていたんだよな。

五月祭

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日曜日に東大の五月祭に行きました。高3の模試の時に脱走して駆け込んで以来だいたい毎年行っています。安定して毎年面白い学園祭だと思います。広い敷地を目いっぱい使って大々的に学園祭をやっているあの雰囲気が好きです。そして何よりコンテンツがとにかく充実していて良いですね。文理問わず、めちゃくちゃニッチでマニアックで、それでいてタメになるものに大量に触れられる面白さがあります。あと皆さんそれをとても楽しそうにやっておられる雰囲気も良いです。課外活動とか研究はこうあってほしいなとつくづく思うところはありました。とりあえず今日のゼミ頑張ります。